人には苦しみがあります。苦しみの真っただ中にいると、いち早く苦しみから抜け出したと思うでしょう。
人は誰でも苦しみ味わいたくないのに、なぜ苦しみがあるのでしょうか?
・苦しみを知るから幸福も知れる
・神は乗り越えられる試練しか与えない
と、一度は聞いたことがあるかもしれません。そうかも知れませんが、今の苦しみを和らげることとは別のような気がします。
とにかく今、苦しいのをどうにかしたいでしょう。私も苦しかった時期を思い出し、仏教的な視点から苦しみについて考えてみました。今の苦しみが和らぐわけではありませんので、ご了承ください。
苦しみの種類
苦しみを分けると、「変えられる苦しみ」と「変えられない苦しみ」に分けられます。変えられる苦しみなら、積極的にその方法を実行するでしょう。
この記事で取り上げるのは「変えられない苦しみ」です。
- 生まれ落ちた環境
- そこから体験したこと
- 身についた現在の能力
の分類です。親ガチャという言い方もします。
「あの時こうしておけばよかった」と考えるのは、その時はその時なりに最善の選択をしているはずです。後で思い返して判断能力を培えていなかったので、現在の能力として変えられない苦しみになるように思います。
簡単にいうと、今の苦しみは全て「変えられなかった」苦しみです。
誰も好んで苦しい思いをしたくないのに、苦しみがあるのはなぜでしょうか。
仏教の因果応報説
仏教の思想に因果応報があります。自分の行為が自分に返ってくるという考え方ですね。BC1000年あたりのバラモン教から生まれた思想を仏教が引き継いでいます。
自分の行いによって業(カルマ)が作られ、その業が悪い場合に苦しみが生まれると説いています。
不慮の事故など、偶然に起こることも因果応報であると説く場合もあります。私は物事が必然性と偶然性の両方で起こってくると思うので、偶然に降りかかる不幸もあると考えています。必然か偶然かは人知を超えているように思います。
話し戻って、因果応報は聞いたことがあるけど、自分はそんなに悪い行いをしたつもりはなく、善いことをしているという自覚もあるかもしれません。
世の中を見渡すと、清く正しく生きている人は報われず、そうでない人は報われているケースを目の当たりにすることもあります。世の中は理不尽にできていると思うでしょう。
現世のみで考えると、因果応報は疑わしくもあります。
因果応報は過去生にさかのぼる
因果応報は輪廻転生を前提として、過去生に遡ぼっていきます。
過去生といわれても身に覚えがありませんよね。それに輪廻転生や因果応報が本当なのか確かめることはできません。あくまでひとつの考え方です。
今、分かっていることは、自分が生きていることです。過去に生きていた「原因」から、今生きているという「結果」があります。何もないところからは何も生まれない、という考え方に基づいています。
輪廻転生を採用すると、一時的に苦しみが増えるかもしれない
現世で苦しい人は、過去世で極悪非道な行いをしていたからなのでしょうか?そうだとしたら、今苦しい人は、さらに苦しい思いを余儀なくされます。
この業の説でいうなら、そうなります。この考えを採用すると、一時的に苦しむが強くなるでしょう。それは仕方のないことに思います。あくまで仮説ですし、無理に採用しなくてもいいのです。(ここで読むのを終了してください)
過去生は身に覚えがない
過去の自分とは、自分でないけど自分だった人です。文章にすると破綻していますが、そんなニュアンスのようです。
過去の行いは身に覚えがなくても、現在苦しいという結果があるなら、それは過去に原因を作っていたと考えられます。その原因のエネルギーが業(カルマ)です。
たとえば、100センチから落とすと50センチ跳ね返ってくるボールがあるとします。80センチ跳ね返ってくる結果を知れば、160センチから落とされたと推測するでしょう。
ボールにかかっている重力のエネルギーと業のエネルギーは同じで、今の苦しみが大きいなら、業も大きいと推測できます。
今の苦しみの因果関係をたどると、過去の自分でない自分が原因を作っていたと考えられます。
業といわれても身に覚えはなく、しっくりこないでしょう。業は目に見えなく計ることもできず、誰も分かりません。催眠療法(ヒプノセラピー)では過去生を遡るようですが、それが正確かどうかは知りようがないでしょう。
業は清算されるように働く
業は自分が行った行為が自分に返ってくる。ただ、そのようにできているようです。
たとえば、自分に大きな危害を加えた人がいるとしたら、その人に対してどんな気持ちになるでしょうか?
許すという考え方は素敵ですが、一時的な感情としてその人に同等の罰がくだることを望むのではないでしょうか。その罰が少なかったら物足りないし、自分よりもはるかに多いと、逆にかわいそうに思えてきます。
その人に自分の行いを清算してもらうことで、世の中の秩序が保たれているように思います。
それを自分に置き換えてみると、業の清算のために苦しみを味わう必要がある、もしくはあったと考えられます。
業の量は誰にもわからない
業は見えませんし、そのエネルギーの量も分かりません。ただ現れてくる現象から、性質や大きさを推測するしかありません。
ただ「同じものを受け取る」という、シンプルな仕組みがあるだけです。
今、苦しみがあるなら、業を清算のために同じ分だけの苦しみを味わうことになります。
業と苦しみのバランスがとれるまで苦しみが続くのでしょう。
そして苦しみが消え去ったなら、それは業が清算されたということです。
いつ苦しみが清算されてなくなるか分かりません。分かったら少しは苦しみが和らぐでしょうけど、それも含めて苦しみを味わう必要があるのかもしれません。
いたずらに苦しめばいいわけではない
業の清算のためには苦しみが必要だと言っていますが、いたずらに苦しめばいいのではありません。とても注意が必要です。
キリスト教学で伝えられている“ニーバーの祈り”という言葉が的確に思います。
少し省略していますが「変えることのできるものは変える勇気を、変えられないものは受け容れ、そのどちらかを識別する知恵を与たまえ」という内容です。
要約すると、その苦しみの性質を識別して、
「変えられるもの」は全力で行うと、現実を変えられることができ、
「変えられないもの」は受け入れると、無駄な労力を使わなくて済みます。
この記事では「変えられないもの」は、「変えられない苦しみ」に該当します。
「変えられる苦しみ」は改善を試み、「変えられない苦しみ」はどうすることもできないのです。
まとめ
苦しみを仏教的な視点で考えてみました。
人は誰しも苦しい思いをしたくありません。自分の意志とは別に苦しみが訪れているということは、苦しい思いをする必要があるということでしょうか。誰かが代わりに苦しむこともできません。
この記事を読んでも救いはありませんでした。苦しみが治まるまで、ただ苦しむしかないようです。
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